線路は続くよ どこまでも 野をこえ 山こえ 谷こえて はるかな町まで 僕たちの 楽しい旅の夢 つないでる 線路は歌うよ いつまでも 列車のひびきを 追いかけて リズムに合わせて 僕たちも 楽しい旅の歌 歌おうよ
日本に広まるようになったきっかけは、1960年アメリカで制作された「テキサス決死隊」というテレビドラマ。番組中の主題歌として、この曲が使われたのだ。軽快で力強いメロディーが評判になり、1962年、 NHK「みんなのうた」のなかで、『線路はつづくよどこまでも』の題名で登場。子ども達に愛唱される童謡になった。 いかにも、「列車に乗って旅に出よう」という感じの、ほのぼの気分の歌詞だが、この曲が日本に渡ってきたのは、もう少し前。1955年(昭和30年)、『線路の仕事』という題名で紹介された。 1番 線路の仕事は 何時迄も 線路の仕事は 果てがない 汽笛の響きが 鳴り渡れば 親方は叫ぶ 吹き鳴らせ 2番 つらい仕事でも いまいには つらい仕事でも 果てが来る 汽笛の響きが 鳴り渡れば つるはし置いて 息絶える
戦争が終わって10年、日本が敗戦から立ち直り、まさに高度経済成長が始まろうとしている時代。国民に労働意欲の喚起を促す労働歌だ。
では原曲は、どこでいつどんな時代に生まれたのか。舞台は、19世紀のアメリカの西部開拓時代。当時、空前の大プロジェクトであった大陸横断鉄道の鉄道建設が行われていた。歴史的な大工事を請け負ったのは、セントラル・パシフィック鉄道とユニオン・パシフィック鉄道という2つの会社。アメリカ政府は2社にそれぞれ西と東、両方面から鉄道を敷いて、ちょうど中心に位置するユタ州で合流するように計画を立て、早くたどり着いた方の会社に補助金を多く払うという条件を提示して、競争心をあおった。
工事が始まったのは1963年。ちょうどその頃、アメリカは南北戦争の真っ只中。国内の成人男性は、戦争にとられていたため、労働力が絶対的に不足していた。そのため、大量の中国人、アイルランド移民が労働力として駆り出された。工事は困難を極めた。 シェラネバダ山脈の厳しい地形条件と天候に悩まされ、多くの労働者の命を奪っていった。しかし労働者達の執念が実り、1869年、西と東がユタ州のプロモントリーでドッキングし、大陸横断鉄道は開通した。この歌は、工事中、アイルランド系の工夫達によって、歌われ始めたといわれている。元々原曲は、移民労働歌だったのだ。 邦題は『鉄道稼業』。歌詞からは、過酷な労働に挑む、男達の姿が浮かんでくる。和訳を紹介しよう。 1番 朝から晩まで 鉄道工事 瞬く間に時間が過ぎていく 笛の音が聞こえたかい 朝はこんなに早く起こされるんだぜ 親方が怒鳴っている ダイナ ホルンを吹き鳴らせ! ダイナ 吹き鳴らせ おまえのホルンを ちなみにホルンは、食事の合図に吹く笛。歌の1番だけ読めば純粋な労働歌だが、その後の展開を追っていくと、様相が変わってちょっと怪しくなってくる。 2番と3番は、こんな感じだ。 2番 誰かがキッチンにダイナと居る 誰かがキッチンに居る
俺は知ってるんだぜ 誰かがキッチンにダイナと居る あの古いバンジョーをかき鳴らしているんだ 3番 誰かがダイナと愛し合っている 誰かが愛し合っている 俺は知ってるんだぜ あの古いバンジョーが聞こえないから
ダイナは蒸気機関車の愛称ということになっているが、女性の名前という説もある。解釈次第では、猥歌ともとれるきわどい歌にもとれる。まあ、つらい労働に耐えるための憂さ晴らしの歌なのだから、内容が品行方正である必要もない。現場にイロコイのひとつやふたつなければ、やってられない気持ちもわからないではない。でも、新大陸に夢を託した開拓者の魂を伝える、言葉の力を感じさせる歌詞だ。 この曲は、鉄道建設を描いたアメリカ映画「大平原」の主題曲に使われたり大学の校歌や応援歌になったりして大活躍。アメリカ民謡の代表ともいえる存在に君臨している。日本でも阪神鉄道やJR西日本岡山支社にあるホームでの接近メロディーに流されたり、福岡ソフトバンクホークスの応援に使われたり、今も変わらず広く親しまれている。 名曲は、いつまでも続くよどこまでも、である。
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